2009年8月15日土曜日

昭和20年の鎌倉の情景と生活  高見順「敗戦日記」から





 毎年、八月十五日には、終戦(敗戦)当時のことが気になります。北鎌倉に住んでいた高見順が著した「敗戦日記」は、当時の鎌倉の情景と生活を、更には日本人の心根の奥底を見抜き、それらを著したものです。歴史的にも貴重な資料であると共に、超一級の日記文学と言われています。

 以下に、ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、高見順の「敗戦日記」からの一部を抜粋して紹介します。

 私達の世代は、当時のことは、ほんの少しだけ断片的に記憶の片隅にある程度だと思います。ただ、私達の親の世代は、昭和20年当時の鎌倉の情景と生活について、多分、似通った体験をしたのではと想像します。


昭和二十年一月二日

 雑煮を食い、母、妻とともに鶴岡八幡宮に参拝。疲れてこたつに入り寝る。身体がまだほんとうでない感じ(支那から帰って去年いっぱい、粥食で通した。アミーパ赤痢気味)(註、昭和十九年六月二十二日陸軍報道班員として渡支、同年十二月十四日帰国)。

来訪者なし、夜、読書、この二日間珍しく敵機来襲なし。(一日未明に来たことは来たが)

二月三日

 食事の時、古新聞(註、よごれていた為の表現か。前々日の二月一日付東京新聞)が眼についた。一年前には見られなかった論調である。一年前に「日本が負けたら大変だから、しっかりやろう」などと言ったら、神州不減の日本に対し、仮定にもせよ負けたらとは何事かというわけだ。憂れうべき神秘主義だった。

 快晴、鎌倉へ散歩。建長寺に「予科士体格試験場」という貼札がしてあった。そして八幡宮の境内には、弁当を食べている中学生がいっぱいだ。

 今日は節分、八幡宮の鳩は参詣の人から豆を沢山貰って食傷顔。

 仕事にかかれない。やはり、だから日記帳に向う。向ったはいいが何も書くことがない。いや、そうでなくて書くことはあるのだが、書く気がしない。豆を煎って豆まきをした。各入りの提灯を出させて、妻と八雲神社に詣でる。寒気きびし。


三月五日

 夕暮に散歩に出た。夕暮のなかに浮び出ている、狭い道の両側の、灯をかくした真黒な人家が何か戦線の廃屋のような感じで、ギョつとした。敵の本土上陸とともに、このあたりも戦災を蒙るだろうと、そんなことを考えつつ、歩いていたからであろう。

 このあたりは、東京に近い便利な疎開地として見られていたが、そして今のところは東京のように爆撃を蒙らず安泰であるが、近い将来には戦禍から免れられないという専らの噂だ。敵がもし由比ヶ浜から上って来たら、このあたりは灰燼に帰してしまう。その由比ヶ浜上陸説は、相模湾の狭さを考えると、疑心暗鬼の類いと私は思うが、しかし東海道の沿岸から上るとすると、敵の目指すところは東京だから、このあたりはどうしても敵の進攻の道筋に当る。戦禍に見舞われることは覚悟せねばならぬ。すでにまっくらになった。まっくらな中を歩いていると、警報がなり出した。


三月十七日

 小林秀雄が自転車に乗って煙草の配給(ペンクラプ、註・鎌倉ペンクラプ員への特別配給)を持って来てくれた。明日伊東へ行くというので、オークションヘ出す品物を持って行って貰うことにした。ジャワで買ったカバン、鰐皮の妻のハンドバッグ(内地で買ったもの)、鰐皮の札入、銭入れ(ジャワ製)、パルダックス(写真機)、ジャワ更紗数枚等々。二千円程入るだろうか。

 小林秀雄も現金を得たく、愛蔵の焼物類をのこらず骨董屋に売った。


八月十二日

 新聞が来ない。

 脚立を担いで、かぼちゃの交配をして廻った。

 快晴つづき。おかげで米の凶作からのがれられるらしい。日が傾いてからなすにこやしをやった。こやしの桶のつるがこわれて、足にこやしを浴びた。

 今日もラジオは何も告げない。九時のニュースの時など、それっと、ラジオの前に行ったが(音が低くて側へ行かぬと、聞こえぬのだ)簡単な対ソ戦の戦況と米作に関するもの、タイに於ける邦人企業整傭のこと、この三つでアッサリ終り。

 新田が今日から隣組の大野さんの一室を借りることになった。そして食事は私のところへ摂りにくるのである。

 「○○(註、東条)というのは、考えてみると、実に怪しからん奴だ」どこでもそんな話になる。私もそうしたことをいう。しかし、日本を今日の状態に至らしめた罪は私たちにもあるのだということを反省せねばならぬ。

 「文化界から一人でも佐倉宗五郎が出たか」と過日栗原少将は言った。ムッとしたが、なるほど、言論の自由のために死んだ文化人は一人もないことを恥じねばならぬ。

 「執筆禁止」におびやかされながらしかし私は執筆を禁止されなかった。妥協的なものを書いてべんべんとして今日に至ったのである。恥じねばならぬ。他を咎める資格はないのであった。しかし・・・・


八月二十四日

 雨の晴れ問をみて、店へ出ようと駅へ行ったら乗車券を売ってない。歩き出したら雨が降って来た。浄智寺の下の家の軒に林柾木君が雨宿りをしていた。関口氏を訪れるところだという。小袋坂で、勤労動員から解放されたらしい若い娘たちがいずれも新しいバケツをさげているのに会った。「重いわね」と口々に言ってバケツを運びづらそうにしているが、喜色満面であった。

 バケツのなかには何が入っているのか、罐詰でも入っているのか。工場からの「分捕品」であろう。


八月二十八日

 電車に乗るとひどい混みようだつた。復員の水兵が大きな荷物を持ち込んでいる。これが癇にさわる。普通乗車券の発売停止の間になぜ乗らないのだ。一般乗客を禁止して復員のための電車を特別に用意している問になぜ乗らないのだ。そんなことが腹が立つ。それにその大きな荷物はなんだ。まるでかっぱらいだ。毛布を何枚も持っているのがある。兵舎にあるものを何んでも持ち出している。乾パンと罐詰の山。

 なぜ戦災者にわけないのだ。飢えている壕生活者に与えないのだ。軍隊のこの個人主義。癇が立つ。水兵が汚いのも、癇にさわる。まるで敗残兵だ。連合国の兵隊はもう上っている。この汚い日本の兵隊を見たらどう思うだろう。口惜しい。癇が立つ。

 頭上を低空で占領軍の飛行機が飛び廻っている。癇が立つ。ポカンと口をあけて見上げているのがいる。バカ! なんでもかんでもシャクにさわった。神経がささくれている。

 新橋駅には憲兵が磐僑していた。憲兵検間所というのが新設された。そう言えば北鎌倉駅には保安隊と書いた腕章をつけた海軍兵がいた。銃を持ってない。わびしい姿だった。保安隊の下にN
.Pとある。英語の氾濫の前触れだ。


九月五日

 この間、鎌倉の八百屋で本を売っていた。野菜は売ってない。

 新橋の外食券食堂の前で、外食券をこっそり売っている。一枚五円。五十銭のメシである。外食券で食っている者は一回食事を抜かして券を闇で売ると、一月百五十円になる。文字通り寝ていて、百五十円もうかる。


十月二十日

 駅は薄暗かった。電球がないのだろう。向側の歩廊に人だかりがしている。笑い声が挙っている。アメリカ兵が酔ってでもいるのか、大声で何か言い、何かおかしい身振りをしている。そのまわりに、日本人が群がっている。そのなかに、若い女の駅員が二人混っている。アメリカ兵は自分の横を指差して、女の駅員に、ここへ来いと言っている。そして何か身振りをして見せる。周囲の日本人はゲラゲラ笑い、二人の女の駅員は、あら、いやだと言ったあんばいに、二人で抱きついて、媚態を示す。彼女等は、そうしてからかわれるのがうれしくてたまらない風であった。別の女の駅員が近づいて来た。からかわれたいという気持を全身に出した、その様子であった。なんともいえない恥かしい風景だった。

 この浅間しい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした。面白がって見ている男どもも、南洋の無智な土着民以下の低さだ。日本は全く、底を割って見れば、その文化的低さは南洋の植民地と同じだったのだ。自惚れていたのだ。私自身自惚れていたのだ。



「電車の窓の外は」(高見順がガンによる死の前に詠んだ詩)

電車の窓の外は  光りにみち  喜びにみち  いきいきといきづいてる

この世ともお別れかと思うと  見なれた景色が  急に新鮮に見えてきた

この世が人間も自然も  幸福にみちみちている  だのに私は死なねばならぬ

だのにこの世は実にしあわせそうだ  それが私の心を悲しませないで

かえって私の悲しみを慰めてくれる  私の胸に感動があふれ

胸がつまって涙が出そうになる



高見順略歴

 小説家、詩人の高見順は明治四十年(1907)福井県に生まれで、本名は高間芳雄。中学時代から白樺派に惹かれ、東京帝国大学に進むと左翼芸術同盟に参加し、機関誌「左翼芸術」などに作品を発表するようになります。大学卒業後は、コロムビア・レコード会社に勤務しながら、プロレタリア作家として活動しますが、昭和七年治安維持法違反の容疑で検挙され、転向を余儀なくされます。昭和四十年(1965)五十八歳で亡くなりました。

 鎌倉には、昭和十八年から没年まで北鎌倉の山ノ内に住み、貸本屋「鎌倉文庫」や出版社「鎌倉文庫」に参画し活躍しました。

 東慶寺に墓所があり、かたわらに詩碑があります。(上記写真下)

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