2009年12月21日月曜日

鎌倉の年の瀬のイルミネーション

鎌倉の町のあちこちに、イルミネーションが目立つ年の瀬にになりました。
今年ももう少しです。


















2009年12月10日木曜日

2009年-男の忘年会


2009年の「男の忘年会」は、12月9日に「蘭」で14名が参加し、なかなかの盛会でした。(黒岩さまは、直前に腰を痛め、残念ながら欠席)

いつの間にか、私達は70才の足音が聞こえる年齢になってしまいました。

今後も仲間は、いつまでも元気に過ごしたいものです。

なお、直近に竹内先生を訪問された若田様から、「先生は大変お元気」との報告がありました。
































2009年10月25日日曜日

竹内先生からの続報

先のクラス会の際に、竹内先生からさまざまな資料をいただきました。今回追加の資料として、三年前のクラス会の際に川音川の河川敷で講義をしていただいた内容に関連する事柄が記載された以下の資料を竹内先生が送ってくださいました。
 皆様に紹介いたします。



(写真の説明)
 川音川の河川敷のつる植物(文久橋から下流方向を望む。2009.年9月9日撮影)
 ①河川敷の繁茂した雑草、②台頭した低木類、③高水敷の芝生、④私立立花学園高校の校舎、⑤酒匂川の三角土手方向。⑥から⑤に向かって、酒匂川左岸用水の川音川サイホンが敷設されている(河川敷の河床下)

(本文)
西さがみ
自然とともに「257」(金曜日掲載)   2009.10.23「神静民報」

写真は、酒匂川の支流・川音川(松田町).の川尻に繁茂するオギ、クス、アレチウリなどの雑草群落です。これまでにも、このシリースでその生態や移り変わりのしかたについて触れてきましたが、私の心の一隅にはいつも「これだけの分量(干し草も入れて)があったら、ヤギやウサギは何頭(匹)ぐらい飼えるだろうか」、戦前戦後のあのヤギに「このクズの葉をたっぷり食べさせてやりたかった」などの思いがすみついています。
 線路の斜面の一つかみの芝がどれほど貫重な草だったかを体験した者でないと、いまの草むらの「もったいなさ」が理解できないのではないかと思います。私だけの体験ではなかったはずです。
 元・県自然保護協会会長の酒井恒先生(大井町名誉町民)が、写真の対岸(酒匂川右岸)の自然探訪のときに、「両岸のそれぞれの松の間に、実の成る木を植えてておけば、いざという時には、日本人の誰かの口に入る」「いざという時、最も手早くサツマイモ畑になるのはゴルフ場だ」などとおっした言葉が耳の底に残っています、その「いざ」を無くすのが世界の命題ですが、こと「食べ物」のことです。
 郷土の偉人・二筥尊徳の「価値創造」にならい、この草むらの価値転換の発想ができるようー、子どもや若い人たちに体で覚えてもらいたいと思います。「人は自分の知っていること以外は見ていない」(ゲーテ)という言葉も、時代と場所を超えて関連づけておきたいと思います。
(日本自然保護協会自然観察指導員、竹内清)

2009年10月14日水曜日

本日はご苦労様でした

本日は、皆様、楽しいひとときを過ごされたと思います。とりあえず、何枚かの写真を添付いたしましたので、ご覧ください。
































2009年10月3日土曜日

「かまくらりんどうの会」(木場代表)の20周年記念講演会

 木場さまが代表をされている「かまくらりんどうの会」(認知症を支える家族の会)は、このたび20周年記念講演会を開催いたします。記念講演会は市役所等で広報されています。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、ご連絡いたします。



かまくらりんどうの会(認知症を支える家族の会)
20周年記念講演会

「病んでも生き抜こう」うつ病を体験して
  アナウサー  小川 宏氏

NHKアナウンサーとして「ジェスチャー」等で名声を博し、後フジテレビの朝のワイドショー「小川宏ショー」の司会を通算17年務め、4451回という金字塔を打ち立てた。

日時:平成21年10月24日(土)牛後1時30分~3時(開場午後1時)

会場:鎌倉市福祉センター2F(鎌倉図書館となり)第一、第二会議室

その他:入場無料、先着180名

間合せ:TEL・0467-50-0105木場
・0467-25-0800鈴木・0467-31-8889渡辺

主催:かまくらりんどうの会
後援:鎌倉市・鎌倉市社会福祉協議会・神奈川県鎌倉保健福祉事務所・神奈川新聞杜・神奈川新聞厚生文化事業団

2009年9月30日水曜日

秦さまからの贈り物 男はつらいよ

 正月映画の定番としてご存知、渥美清主演で山田洋次監督の「寅さんシリーズ」の舞台、柴又付近の写真です。

 多分、どなたも映画やTVで、何度か目にふれたたことのある映像だと思います。











最近、ウィーンに「寅さん碑」が建立されたことが報道されました。

2009年9月1日火曜日

鎌倉時代の鎌倉の大地震  正嘉の大地震



「立正安国論から750年」よりの抜粋

「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭(てんぺんちよう)、飢饉疫癒(ききんえきれい)、遍く天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷に斃れ、骸骨路(みち)に充り。死を招く輩(ともがら)既に大半を超え、悲しまざるの族(やから)一人も無し。・・・・・ 」

 これは、 鎌倉時代、文応元年(一二六〇)七月十六日、日蓮聖人が幕府の最高実カ者である前の執権最明寺入道時頼に提出した「立正安国論」の冒頭の部分です。
 このとき日蓮聖人は三九歳でした。

 正嘉元年(一二五七)八月二十三日夜半、鎌倉に起こった未曾有の大地震(正嘉の大地震)が起こりました。大音響とどもに大地は振動し、鎌倉の寺院.武家屋敷、民家等ことごとく倒壊し、地割れを起こし、道は寸断され、火災が起こり住民は大半が命を落とし、その後も打ち続く天変地夭によって飢鐘疫病がもたらされました。


 鎌倉幕府の公的編纂で、武家による最初の記録文書といわれる『吾妻鏡』には、度重なる災害の様子が細かに記されており、正嘉元年八月二十三日の地震の激しさについて次のように記しています。

 「二十三日 乙巳晴れ。午後八時頃、大地震。大きな音があった。神社や仏閣は一つ残らず倒れてしまった。山岳は崩れさり、人の屋敷も顛倒した。埋め立て地は皆ことごとく破損し、地面は所々裂け、水が涌き出ていた。中下馬橋の辺では、裂けた地面の中から青い火炎が燃え出していた」


 この地震は北緯35.2度、東経139.5度の関東南部を震源としたもので、およそマグニチュード7~7.5と推定されています。(『理科年表』国立天文台編)

 
地震学が進歩した今日の予知や発達した情報網、防災完備の建築技術のレベルの高さを考えると、当時の被害状況と単純に比較はできませんが、当時の記録文書は、「八月二十三日の地震」がいかにすさまじいものであったかを物語っています。

 『吾妻鏡』によれば、翌二十五日には、「地震小動五六度」とあり、九月に入っても地震は止まず四日の記事には、「地震。先月二十三日の大地震以後、地震の揺れは止まらない」と。また二十四日には、「地震によって御所南方、東方の埋立地が壊れた」、さらに十一月八日は、「大地震。八月二十三日の大地震と同じ規模であった」とたいへん不安定な状況が続いていたことがわかります。
 


 この間幕府は、諸々の寺社に地震がおさまるよう祈祷をさせましたが全く効果はなく、五年間に四度も改元されるあり様でした。そして正元元年(一二五九)には、大地震、大雨洪水がこれまでにない飢饉や、疫病を招き、その被害は広い範囲におよんだのです。民衆はなす術もなく途方にくれるばかりでした。

 9月1日は防災の日です。地震への備えは、今日でも、どんなに準備しても、準備し過ぎる事はなさそうです。 

2009年8月26日水曜日

秦さまからの贈り物-Fantastic trip(FROM MICRO TO MACRO COSMOS )

TO MACRO(フロリダ半島の一隅から、果てしない宇宙への極大の世界への旅)




















TO MICRO(細胞の極小の世界への旅)












 嘗てこの発想はスミソニアン博物館か,どこかのEXPOで見ましたが、添付は「10の23乗」 の迂遠の大宇宙から10のマイナス16乗の極小(プロトン)の驚異の世界へ案内してくれます。

 この中ほどにも出てきますが、正にゴーギャンの遺作のタイトル「我々はどこから来たのか? 我々は何者か?我々はどこへ行くのか?を考えるに相応しい映像と思います。
是非、子女の理科教育にもお役立てください。

秦浩一

 
 上記の写真は、抜粋して一部を紹介したものです。(倍率の表示は省略してます)

 皆様のなかで、パソコンに「POWER POINT」がインストールされている方は、 スライド・ショウで、El condol pass(コンドルは飛んでゆく)をBGMとした全ての画面を見ることができます。秦さまにメール配信を依頼してください。