2009年9月1日火曜日

鎌倉時代の鎌倉の大地震  正嘉の大地震



「立正安国論から750年」よりの抜粋

「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭(てんぺんちよう)、飢饉疫癒(ききんえきれい)、遍く天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷に斃れ、骸骨路(みち)に充り。死を招く輩(ともがら)既に大半を超え、悲しまざるの族(やから)一人も無し。・・・・・ 」

 これは、 鎌倉時代、文応元年(一二六〇)七月十六日、日蓮聖人が幕府の最高実カ者である前の執権最明寺入道時頼に提出した「立正安国論」の冒頭の部分です。
 このとき日蓮聖人は三九歳でした。

 正嘉元年(一二五七)八月二十三日夜半、鎌倉に起こった未曾有の大地震(正嘉の大地震)が起こりました。大音響とどもに大地は振動し、鎌倉の寺院.武家屋敷、民家等ことごとく倒壊し、地割れを起こし、道は寸断され、火災が起こり住民は大半が命を落とし、その後も打ち続く天変地夭によって飢鐘疫病がもたらされました。


 鎌倉幕府の公的編纂で、武家による最初の記録文書といわれる『吾妻鏡』には、度重なる災害の様子が細かに記されており、正嘉元年八月二十三日の地震の激しさについて次のように記しています。

 「二十三日 乙巳晴れ。午後八時頃、大地震。大きな音があった。神社や仏閣は一つ残らず倒れてしまった。山岳は崩れさり、人の屋敷も顛倒した。埋め立て地は皆ことごとく破損し、地面は所々裂け、水が涌き出ていた。中下馬橋の辺では、裂けた地面の中から青い火炎が燃え出していた」


 この地震は北緯35.2度、東経139.5度の関東南部を震源としたもので、およそマグニチュード7~7.5と推定されています。(『理科年表』国立天文台編)

 
地震学が進歩した今日の予知や発達した情報網、防災完備の建築技術のレベルの高さを考えると、当時の被害状況と単純に比較はできませんが、当時の記録文書は、「八月二十三日の地震」がいかにすさまじいものであったかを物語っています。

 『吾妻鏡』によれば、翌二十五日には、「地震小動五六度」とあり、九月に入っても地震は止まず四日の記事には、「地震。先月二十三日の大地震以後、地震の揺れは止まらない」と。また二十四日には、「地震によって御所南方、東方の埋立地が壊れた」、さらに十一月八日は、「大地震。八月二十三日の大地震と同じ規模であった」とたいへん不安定な状況が続いていたことがわかります。
 


 この間幕府は、諸々の寺社に地震がおさまるよう祈祷をさせましたが全く効果はなく、五年間に四度も改元されるあり様でした。そして正元元年(一二五九)には、大地震、大雨洪水がこれまでにない飢饉や、疫病を招き、その被害は広い範囲におよんだのです。民衆はなす術もなく途方にくれるばかりでした。

 9月1日は防災の日です。地震への備えは、今日でも、どんなに準備しても、準備し過ぎる事はなさそうです。 

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