2012年7月16日月曜日

下馬まで来た明応東海地震の津波




明応東海地震の津波についての記載が、「産経新聞」(7月16日)に掲載されていました。
以下に紹介いたします。

都司嘉宣 鎌倉の大仏殿流失 明応東海地震説は誤り


 「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる神奈川県鎌倉市長谷の古刹(こさつ)、高徳院の本尊は、奈良・東大寺の大仏と違って大仏殿がなく、屋外にそのまま置かれた「露座(ろざ)」となっている。本来は大仏殿があったはずだが、いつしか失われたらしい。その原因について、明応7(1498)年8月25日(ユリウス暦9月11日)に起きた明応東海地震の津波とする主張がある。
 その根拠は、「鎌倉大日記」という文献の明応4年の項目にある次の記述だ。
 <明応四年乙卯八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比浜海水到千度壇、水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余>
 この原文について、明応4年は明応7年、8月15日は8月25日の誤りとみなし、「千度壇(せんどだん)」は意味不明の語とした上で、明応東海地震で起きた洪水、つまり津波が大仏殿を破壊したと解釈しているわけだ。
 さて、千度壇の意味は本当に不明なのか。実は文明18(1486)年に鎌倉に立ち寄った美濃の禅僧、万里集九(ばんりしゅうく)が、漢詩文集「梅花無尽蔵」に、古都鎌倉の中心である鶴岡八幡宮から相模湾に面する由比ケ浜方面に続く石積みの歩道のことだと書き留めていた。
 ということは、この文の中間部分は「大地震の津波は、由比ケ浜では千度壇まで達した」と解釈すべきことになる。石積み歩道の最も由比ケ浜に近い地点は、現在は「下馬」と呼ばれる海岸から約1キロの場所で標高は3.8メートル。これが、鎌倉における明応東海地震の津波到達高ということだ。
 ところで、鎌倉大仏は下馬と同じく海岸から約1キロだが、標高は13.8メートル。ここに津波が到達したとは思えない。鎌倉大日記の記述は矛盾を抱えており、大仏殿が明応東海地震の津波で失われたとは考えにくい。
 また、前述の万里集九は鎌倉滞在中、高徳院にも立ち寄っており、大仏について「堂宇無し」と記録している。堂宇は堂の建物のことで、すでに文明18年時点で大仏殿はなかったということになる。
 では大仏殿はいつなくなったのか。鎌倉大日記以外にも、南北朝時代が舞台の軍記物語「太平記」に、建武(けんむ)元(1334)年8月3日に大風で倒壊したとの記述もあるが、今のところ確定的な結論は出ていない。
 ただ、明応東海地震の津波で破壊されたという主張が間違いであることは確実だ。この説は意外なほど広く浸透しているが、万が一にも、神奈川県や鎌倉市の防災計画が誤解釈の影響によってゆがめられたら、大変なことになる。
(つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震・津波学)

2012年7月1日日曜日

秦様からの贈り物 Strange Old Vehicles

皆 様
表題では、「Strange」 Old Vehiclesとありますが、当時の車には近い将来本格的自動車産業時代到来を見通せる諸々の可能性を秘めているように思えます。
そして何よりも画像に登場している人達男女には、今日の我々が忘れかけていると思われる「希望」、「明るさ」、「自信」が覗えるような気がします。
皆さんは如何でしょうか。
米国友人からの配信です。
秦浩一






























































交通博物館で見ているような気になります。

ご承知のように、技術の歴史では常に、様々な試行品が登場して淘汰され、世間で受け入れられたものが後世に残っていきます。


現在のこの分野の技術では、環境問題も絡んで外観からはあまり差異は見えませんが、エコカー技術(動力系・蓄電池等)が百花繚乱の競争でです。


EV(電気自動車;日産、三菱自工)、HV(ハイブリッドカー:トヨタ、ホンダ)、ガソリンエンジンの効率化(マツダ)、ディーゼル(欧州勢)等々です。



秦様提供の写真は他にもありますので、興味のある方は直接、秦様に連絡してください。