2009年6月30日火曜日

秦さまからの贈物ーー「National Geographic」誌の年間ベスト画像から


















































美しい映像と共に、地球上の生命の輝きが迫ってくるようですね。

日本の「津軽半島の北限の猿」と推定される写真も含まれています。

なお、更に他の写真をご覧になりたい場合は、秦さまに直接連絡してください。

2009年6月23日火曜日

私達が小学校を卒業した昭和29年(1954)はこんな年  半藤一利「昭和史残目録」から





「勝ったのは百姓たちだ」
●「七人の侍」の公開  (4月26日)

とにかく永遠に記憶に残る映画である。
 いままでに何度鰍たことか。近ごろは腰痛をかかえる身として、少々長すぎるので敬遠して「椿三十郎」の方にするが、ビデオなんかじゃこの映画の素晴らしさはわからない。やっぱり劇場の大きなスクリーンで観なくては、あの大スペクタクルの真価を味わうことはできない。黒澤明監督の「七人の侍」である。
 侍たちの個性の描きわけの見事さ。キャスティングのうまさ。そしてダイナミツクな集団戦闘シーン、豪雨のなか泥まみれの死闘。それにところどころに挟まる特上のユーモア。それと早坂文雄の感動的なテーマ曲。志村喬が扮する侍がいくつか名言をはく。雇われることを決意したとき、「この飯、おろそかには食わんぞ」。離れた農家が野武士に燃やされたとき、「人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかり考える奴は、己をも滅ぽす奴だ」。そして戦闘が終わったとき、「勝ったのは百姓たちだ。わしたちではない」。
 この名画が公開されたのは、昭和二十九(一九五四)年四月二十六日であった。


「死の灰」
●第五福竜丸の帰港(3月14日)

ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で、放射能をあびた漁船第五福竜丸の無線長・久保山愛吉は語った。
 「(爆発から)三時間もすると粉のような灰が船体に一面に降りかかった。その晩は飯も食えず、酒をのんでも酔わなかった。(略一三日目には灰のかかった皮膚が日焼けしたように黒ずみ、十日ぐらいたってから水ぷくれの症状になった」
 第五福竜丸が母港の静岡県焼津に帰ったのは、実験二週間後の昭和二十九(一九五四)年三月十四日。乗組員は頭痛、吐き気、やけど、下痢などの症状を訴え、病院で手当をうける。これを読売新聞の記者がスクープし、十六日朝刊で大きく報じた。大騒ぎとなり、「死の灰」そして「原爆マグロ」などの忘れえぬ言葉が生まれたのはその後である。「放射能雨に当たるとハゲル」といって恐れたことも思いだせる。実はハゲどころではなかったが……。
 私も記者として焼津に取材に行き、亡くなる前の久保山さんに会った。
「この苦しみはオレ一人でたくさんだ」



「生きた人間も悪臭を発した」
● ディェン・ビェン・フーの陥落(5月7日)

 第二次大戦の終わった翌年から、ベトナムの民衆は、旧支配者のフランスに対して、植民地からの完全独立を求めるねばり強いゲリラ戦を開始した。これを政治指導したのがヨーロッパで教育をうけたホー・チニミン。そして軍を率いたのがボー・グェン・ザップである。
 作戦のよろしきを得たのはもちろんであるが、民衆の強烈な意志が戦闘を優勢裡に展開していく。フランス軍は各所で撃破され、最後の決戦の場をディエン・ビエン・フーに求めた。周囲を山に囲まれた密林地帯の盆地で、敵が山項まで大砲など重火器を運びあげることができるはずはないとフランス軍は高をくくった。その予想は完全にはずれた。延べ九万にのぼる農民がアリのように群がって、山の項に武器を運びあげた。それは驚異の作戦行動であった。
 一九五四(昭和二十九)年三月から攻撃を開始する。ベトナム軍は続くニカ月間、言語を絶する困難を克服して戦い続けた。ディェン・ビェン・フーは五月七日に陥落。完全独立への遣はひらけた。従軍したフランス人写真家が書いている。
「死体も、生きた人間も悪臭を発した。悪夢そのものであった」と。

2009年6月17日水曜日

秦さまからの贈り物-巨大な波

















秦さまから提供して頂いた、見る人を圧倒する巨大な波(一部はCGのようにも見えます)の豪快な映像の数々です。



2009年6月16日火曜日

若田さまの竹内先生近況報告・・・(秦さまへのメールから)








(若田君からのメール)日時: 2009年6月15日 21:07

斉藤彰様、皆々様今晩は。若田君が竹内先生をご自宅に訪問した様子を報告してくれました。竹内先生も相変わらずお元気のようですね。此処に以下転送します。 秦浩一


秦浩一様

 いよいよ入梅との事ですが、まだハシリの様ですね。今年は酒匂川の鮎はちっとも釣れません。という訳では有りませんが、帰りに竹内先生にお会いしてきました。お元気でした。

 先生は83歳、奥様は80歳との事でした。手術した肺、その時にした輸血によるC型肝炎などなど色々有り ますが、なかなかお元気でした。まだ畑をなすったり、松田町のPRのためのボランティアなど色々 やっておられる様です。

 車の運転(60ウン才で免許取った)が心配でとの奥方のお話。

<他のはなし:>

 1.松田町は昔宿場町で芸者さんもたくさんおり、置屋も合った。

 2.川音川の流れは、別な所を流れていたが、洪水が多いので、今のよ うに酒匂川に流すようにした。

 3.酒匂川のもう少し上流に文明用水路(竹内先生宅と反対側)という のがあります。ここの一部の水は酒匂川、川音川の下をくぐって、竹内 先生側の田んぼの用水となっている。
(以下、記憶多少不確実)

 4.酒匂川の対岸、少し下流に二宮尊徳の記念公園が有ります。そこの 彼が植えた松だったかサクラ(言い伝え)が有るんだそうです。200年は経っているはずなのに、切ったら年輪が100年しかなかった。

 5.先生の住所は”惣領”ですよね。それに対して、名称は忘れました が、妾の子供という様な名前の地名が隣町に有るそうです。多分先生は正統派なんでしょうね。

 秦君には余り川の話は面白くないでしょうが、漁師としてはーーーーー。
 ではお元気で        若田宣雄

付記、このメールは秦さまから、メールアドレスの所有者には配信済みです。

2009年6月10日水曜日

成就院は紫陽花も人もいっぱい















極楽寺坂の成就院は、紫陽花越しに海が見える景色で人気があります。

紫陽花の咲き具合を見に行ったところ、ほぼ満開でした。

人出も多く、階段の通路は大混雑でした。やはり女性が多いようです。

見物人の殆どの人が競い合うようにして、デジカメ(ケイタイを含む)で写真を撮っていました。

いまさらながら、デジカメの広範な普及を改めて再認識すると共に、多くの人が目で鑑賞するよりも、写真を撮ることで、目的地に来たという安心感を得ているのではとの気もしました。

秦さまからの贈り物-ミカエル・ガーマッシュの世界


















友人よりの配信です。
ウクライナの有名な画家で、ステンド・グラスの絵画でも有名です。
秦浩一

*付記1・・・画面をクリックすると大きくなります。

*付記2・・・添付した画像はほんの一部です。もし、もっと画像をご覧になりたい場合は、直接、秦さまにその旨を連絡してください。

2009年6月3日水曜日

おじさんたちは何処へ?














 本日(6/3)の午後、時間の余裕ができたので、運動不足の解消を兼ね、近所の起伏の富んだコースの散策をしてみました。

 コースは、長谷の自宅→銭洗い弁天→源氏山→海蔵寺(水の寺として知られている)→八幡宮→小町通り→鎌倉駅→自宅で2時間程度の行程です。

 途中で出会う人は、小学生の遠足と、若干の夫婦ずれ、そして、なんといっても一番多いのはおばさんの2~5人程度の小集団です。

 外観から判断して、おばさんたちの連れ合いは、多分、私たちと同年代程度あるいはそれ以上に推測されます。多分、定年退職者のおじさんたちだと思います。

 お尻がばかに大きく体型の崩れたおばさん達(失礼)をみていてふと疑問がわいてきました。「このように、おばさんたちが外で活動している間、おじさんたちは何処で何をしているのでしょうか?」

 ひょっとしたら、長い会社生活の習慣で個人としての活動が苦手で、独立した個人として何をしてよいのかを模索しているのかもしれないと、勝手に思ってみたりしました。

 これだけ女性達の活動を見ると、私たちのクラス会の幹事も男性が取り仕切る男性上位を正常位と受けとめている感覚を、すこし考え直し、女性上位で女性の感覚でクラス会を取り仕切ってもらっては如何でしょうか。

2009年6月1日月曜日

秦さまからの贈り物-鳥の宝石:八色鳥










秦さまが友人から入手した、見事な美しい写真です。

いまさらながら、自然界に存在する美には感嘆します。