2009年6月23日火曜日

私達が小学校を卒業した昭和29年(1954)はこんな年  半藤一利「昭和史残目録」から





「勝ったのは百姓たちだ」
●「七人の侍」の公開  (4月26日)

とにかく永遠に記憶に残る映画である。
 いままでに何度鰍たことか。近ごろは腰痛をかかえる身として、少々長すぎるので敬遠して「椿三十郎」の方にするが、ビデオなんかじゃこの映画の素晴らしさはわからない。やっぱり劇場の大きなスクリーンで観なくては、あの大スペクタクルの真価を味わうことはできない。黒澤明監督の「七人の侍」である。
 侍たちの個性の描きわけの見事さ。キャスティングのうまさ。そしてダイナミツクな集団戦闘シーン、豪雨のなか泥まみれの死闘。それにところどころに挟まる特上のユーモア。それと早坂文雄の感動的なテーマ曲。志村喬が扮する侍がいくつか名言をはく。雇われることを決意したとき、「この飯、おろそかには食わんぞ」。離れた農家が野武士に燃やされたとき、「人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかり考える奴は、己をも滅ぽす奴だ」。そして戦闘が終わったとき、「勝ったのは百姓たちだ。わしたちではない」。
 この名画が公開されたのは、昭和二十九(一九五四)年四月二十六日であった。


「死の灰」
●第五福竜丸の帰港(3月14日)

ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で、放射能をあびた漁船第五福竜丸の無線長・久保山愛吉は語った。
 「(爆発から)三時間もすると粉のような灰が船体に一面に降りかかった。その晩は飯も食えず、酒をのんでも酔わなかった。(略一三日目には灰のかかった皮膚が日焼けしたように黒ずみ、十日ぐらいたってから水ぷくれの症状になった」
 第五福竜丸が母港の静岡県焼津に帰ったのは、実験二週間後の昭和二十九(一九五四)年三月十四日。乗組員は頭痛、吐き気、やけど、下痢などの症状を訴え、病院で手当をうける。これを読売新聞の記者がスクープし、十六日朝刊で大きく報じた。大騒ぎとなり、「死の灰」そして「原爆マグロ」などの忘れえぬ言葉が生まれたのはその後である。「放射能雨に当たるとハゲル」といって恐れたことも思いだせる。実はハゲどころではなかったが……。
 私も記者として焼津に取材に行き、亡くなる前の久保山さんに会った。
「この苦しみはオレ一人でたくさんだ」



「生きた人間も悪臭を発した」
● ディェン・ビェン・フーの陥落(5月7日)

 第二次大戦の終わった翌年から、ベトナムの民衆は、旧支配者のフランスに対して、植民地からの完全独立を求めるねばり強いゲリラ戦を開始した。これを政治指導したのがヨーロッパで教育をうけたホー・チニミン。そして軍を率いたのがボー・グェン・ザップである。
 作戦のよろしきを得たのはもちろんであるが、民衆の強烈な意志が戦闘を優勢裡に展開していく。フランス軍は各所で撃破され、最後の決戦の場をディエン・ビエン・フーに求めた。周囲を山に囲まれた密林地帯の盆地で、敵が山項まで大砲など重火器を運びあげることができるはずはないとフランス軍は高をくくった。その予想は完全にはずれた。延べ九万にのぼる農民がアリのように群がって、山の項に武器を運びあげた。それは驚異の作戦行動であった。
 一九五四(昭和二十九)年三月から攻撃を開始する。ベトナム軍は続くニカ月間、言語を絶する困難を克服して戦い続けた。ディェン・ビェン・フーは五月七日に陥落。完全独立への遣はひらけた。従軍したフランス人写真家が書いている。
「死体も、生きた人間も悪臭を発した。悪夢そのものであった」と。

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